病院の歴史
甲北病院今昔物語
甲北病院の歴史は第二次世界大戦前の昭和11年(1936年)にまで遡ります。現在の神鉄道場駅(神戸電鉄は1926年開通)が道場川原駅と呼ばれ、この地がまだ兵庫県有馬郡道場村道場と呼ばれていたころ、東京医科大学を卒業し医師となった近藤一(はじめ)が、村人から村医としてまねかれ、甲北病院の礎となる診療所、近藤医院を開設しました。これがすべての始まりです。
近藤一は歴代加賀藩主前田公の御典医の家系でそのルーツは石川県にあり、歴代180人以上の医師を排出した一族の出身です。しかしその父親の近藤善平は当時すでに神戸に住んでいたようですが医師ではありませんでした。近藤善平については詳しい資料は残っていません。妻の近藤千鶴(ちづる)は明石市の出身でその家系は天皇家の分家の末裔ということです。どのような経緯でこの二人が道場村に来ることになったのか、正確な理由はわかっていません。ただ、当時の神戸大学医学部第一外科の助教授が近藤一の医学部の同級生でした。この助教授は神戸市の医療を発展させることに尽力しており、裏六甲の多くの地域が無医村であることを憂い、なんとかしてこの地に医療を根付かせたかったようです。そのため、自身の同級生であった近藤一に懇願し、道場村に来てもらった。そして自分も、神戸市北区の医療の発展のために協力を惜しまない、と約束した、という噂もあるのですが、祖父は多くを語らなかったので、詳細はわかりません。とにかく近藤一と千鶴は、周り一面見渡す限り田畑と山々しかなく、藁ぶき屋根の家があちこちに点在しているだけの道場村で、地域唯一の診療所として、映画のドクターコトーのように、昭和11年、診療を開始したのです。
昭和16年、日本は第二次世界大戦に参戦しました。近藤一は、開院後数年でこの大戦に軍医として出兵しました。大陸へ渡り、ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)陸軍病院の院長を務めました。その間、一の妻でこの時代では珍しい女医であった千鶴はこの地で1日数百人の患者の診察にあたり、近藤医院を守り続けました。当時の診療所にはレントゲンも採血の機器もなく、血圧や体温の測定と、触診や聴診のみだったと思われます。近藤病院(甲北病院の前身)の初代院長である近藤 直(ただし)は両親が近藤医院を開院した昭和11年の10月に生まれました。道場村はほとんど戦火の影響をうけることはなかったのですが、それでも近藤直は一時期、千鶴の実家である明石へ疎開していたようです。そこで明石の大空襲にあいましたが、無事終戦を迎え、道場村へ戻りました。そして三田学園を卒業し、父の母校である東京医科大学へ進学。同医学部を卒業後、神戸市立中央市民病院(現神戸市立医療センター中央市民病院)外科で学び、昭和42年9月1日、兵庫県神戸市北区有野町有野に近藤病院を開設しました。まだ直が31歳の時です。そのわずか4日後、9月5日に現院長の近藤 幹(かん)が近藤病院で誕生しました。この当時岡場周辺はすべて山と田畑で、神戸電鉄岡場駅も小さな小屋が一つだけあるような小さな駅で、本当に何もない、しかし非常にのどかな場所でした。夏になると日中はセミの鳴き声が響き渡り、夜になるとたくさんのホタルが飛び交い、蛙の大合唱が聞こえました。有野台は開発が始まったばかりで、藤原台や鹿の子台はまだ山林でした。北神地区広域には近藤病院と近藤医院以外に病院も診療所もありませんでした。しかし近藤病院は神戸大学医学部(前述した外科助教授が医局を挙げて協力されたそうです)と兵庫医科大学(1972年開校、神戸大学の助教授であった医師が第二外科教授に就任)から全面的なバックアップを受け、神戸市北区のみならず、兵庫県下の広範囲に渡る地域の医療を担う病院となりました。昭和44年から56年にかけて新築、増築を行い、当時の病床数は150を超え、裏六甲の救急医療をほぼすべて受けるほどに病院は急成長していったのです。昭和50年当時、兵庫県下に2台しかなかったCTスキャンの1台は近藤病院にあり、北は豊岡や篠山、福知山などからCT検査を受けるため、患者さんが近藤病院に訪れていました。
しかし急成長した病院の栄華は長続きしませんでした。急成長に組織がついていけず、内部分裂を起こし、いろいろな膿が噴出し、昭和58年には診療を縮小しクリニックとなります。病院は有床診療所「甲北クリニック」となり、近藤家とは別の医師が2代目院長となりました。その後病院は近藤千里(通称ママ先生)を中心とした組織の大改造でなんとかまとまり、昭和62年に「甲北病院」と名称変更して病床数68床で復活し、近藤千里が3代目院長となりました。近藤千里は姫路市の生まれです。千里もかつて第二次世界大戦時、姫路の大空襲を経験しています。姫路東高校を卒業後、徳島大学医学部を卒業し、神戸中央市民病院で産婦人科のインターンをしていました。この時に近藤直と出会いました。
近藤千里が院長となる大改革でも多くの痛みを伴いました。職員数十名が辞職して入れ替わり、一時的に大きな混乱を招く事態となりました。その数年ののち、甲北病院は安定期を迎えますが、平成7年に阪神淡路大震災が起きました。病院のあちこちにひび割れができ、水道管が破裂し、停電するなどのトラブルがありましたが幸いにも、神戸市内の多くの病院のように倒壊するような事態は避けれ、震災後数日で通常業務に戻っていくことができました。その翌年、平成8年に神戸市の大規模区画整理のため病院の表側、有馬街道側は土地建物を5メートル近く後方へ下げなければならず、そのため本館正面を全面的に改築し、現在の表玄関が完成しました。阪神淡路大震災のあとは約5年におよび、非常に忙しい時期が続きました。そして平成15年2月、近藤直と千里の長男、近藤幹が4代目院長に就任し、近藤千里は名誉院長となりました。近藤幹は旧有野幼稚園、旧有野小学校を卒業後、昭和56年に三田学園に入学。そして中学2年の時にアメリカへ留学し、アメリカの高校を卒業後、カリフォルニア大学バークレー校で分子生物学を学び、ウィスコンシン医科大学に進学しました。医学部を卒業後、アメリカの首都ワシントンの病院で外科研修医として働き、平成7年に帰国。平成8年に京都大学医学部第一外科(現消化管外科)に入局。高知市民病院(現高知医療センター)、公立豊岡病院、日本バプテスト病院などで外科医として勤務しました。甲北病院の院長をしながら、平成17年に京都大学大学院を修了しています。近藤幹の妻の近藤奈穂子(兵庫医大卒)も平成17年ごろから甲北病院で働きだし平成22年から本格的に甲北病院で形成外科を始めました。その後の形成外科の発展は地域の皆様も知るところです。
平成15年に近藤幹が院長になってからも病院は迷走する時期がありました。院長が交代するときは、なかなかスムーズにはいかないもののようです。近藤幹が当時大学院にいたことや、その後、大学人事の関係などで平成21年まで甲北病院の業務に十分にかかわることができなかったため、さまざまな問題が職員間で生じていました。しかし平成21年9月から完全に甲北病院の業務に専念できるようになり、病院の舵が大きくとられだしました。近藤幹と近藤奈穂子が中心となり診療を始めた平成22年から病院の経営状況が急速によくなっていきました。そして平成22年1月8日、2年以上の闘病生活の末、近藤直が逝去。平成24年4月1日、病院は法人化され、医療法人社団甲北会 甲北病院となりました。法人化により病院の経営はさらに安定していき、現在に至るまで神戸市北区の地域医療の発展に尽力しています。
現在、そして未来へ。。。
近年の取り組みを説明しますと、法人化した平成24年以降に次々と大きな変化が病院に起きました。平成24年より女性職員の子育てをサポートする、「くるみん制度」を導入しました。くるみん制度を取り入れている病院はほとんどありません。また、やはり平成24年以降、女性を積極的に役職につけるようにし、女性の活躍の場を増やしていきました。現在、病院の幹部級職は、院長の私ともう1人しか男性はおらず、幹部級職の75%が女性です。ここまで女性役職の多い病院は神戸市内だけでなく、兵庫県下にもないと思います。病院の職員は看護師、看護補助師、医事課を含め、女性が多いです。女性にやさしく、女性が子育てしながらでも働きやすい病院、を最重要コンセプトにしています。当院の職員は80%以上が女性で、実際に当院で働いていただければそれが実感できると思います。
診療においては、入院は一般病床12床、地域包括ケア病床8床、療養型病床48床のケアミックス型病院です。外来は形成外科が平成22年に始まり、減量外来を平成24年に開始しました。形成外科は多くの方もご存じの通り、神戸だけでなく大阪、京都、滋賀、奈良など近畿全域から患者さんが来院されるほどに知りわたり、現在では予約は6か月待ち、という超人気診療科となっています。減量外来を標ぼうしている病院も多くはありません。また丁寧な診療を心掛けており、受診された患者さんの90%以上で結果が出ており、受診される方は増加の一途です。当院は予防医療にも力を入れています。人間ドックを平成22年から開始しました。甲北病院の人間ドックは、受けられる方に寄り添い、しっかりと検査結果を説明し、安心してもらう、をコンセプトとしています。企業健診にも力を入れており、特にこの数年で職員の対応、検査結果の説明、健診のコストなど、あらゆることを見直しています。令和2年からはさらに健診と人間ドックの規模の拡大に努めています。令和5年から協会けんぽの健診も行っていきます。
令和3年より訪問診療、訪問看護、訪問リハビリも新たに開始し、高齢化が進む神戸市北区やその周辺地域の医療をさらに担うべく、頑張っています。一般的に、訪問診療を行っている施設はクリニックが多く、入院設備がないため、いざ訪問している患者さんが入院しなくてはならない状態となったとき、入院先を探すのに苦労します。反面、入院設備を持っている病院の多くは訪問診療を行っていません。甲北病院はその両方のメリットを併せ持った医療機関です。外来から訪問診療、そして必要時に入院、とシームレスな医療の提供を常に心掛けています。また、入院患者さんが自宅へ退院するのが難しいと判断した際、提携している高齢者福祉施設と密に相談し、患者さんや家族が安心して退院後も過ごせるように、施設への受け入れがスムーズにできるように心がけています。このようなシステムを地域包括ケアシステムと呼びます。神戸市北区自体がこの地域包括ケアシステムに非常に力をいれていますが、その重要な役割の一端を甲北病院は担っているのです。
令和5年現在、病院は古くなった建物の建て替えを計画しています。実はこの計画は何年も前からありましたが、建築費の高騰など様々な社会状況の問題のため今のところはなかなか思うように進んでいません。次の数年で、病院の建て替えを進めていくことが大きな病院の目標となっています。